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北海道の悲劇!野生動物と人間とのつながりを学ぶ三毛別羆事件

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私たちの平和な日常のすぐ隣には、時として牙を剥く自然の脅威が潜んでいます。

過去を振り返ると、人と野生動物との間で起きた数々の悲劇的な事件が多くあります。
その中でも、大正時代初頭の北海道で発生した三毛別羆事件は、日本で起こった獣害事件の中で最も有名なものではないでしょうか?

本記事では、三毛別羆事件の全貌に迫るとともに、そこから私たちが学ぶべき教訓を探ります。

他にも獣害事件について知りたい方はこちら「世界で起こった獣害事件」をご覧ください。

1915年(大正4年)12月、北海道雨竜郡北竜町(当時の雨竜郡三毛別村)で発生した「三毛別羆事件」は、日本の熊害事件として最も悲惨な事例として記録されている。

この事件では、ヒグマによって7名の人命が奪われ、当時の開拓地における人々の暮らしと野生動物との軋轢を如実に示す歴史的な出来事となった。

三毛別羆事件の背景

大正時代初期、北海道の開拓は本格的な進展を見せていました。

そんな中1915年(大正4年)に北海道で起きた「三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)」は、日本史上最悪の獣害事件とされています。

しかし、野生動物との共生に関する知識や対策は十分とは言えず、人々は常に野生動物との遭遇リスクを抱えたまま開拓を行なっていました。

その結果、この事件では、巨大なヒグマが人里に現れ、7人が死亡、3人が重傷を負うという惨劇が起きました。

三毛別羆事件の経過

三毛別羆事件は、1915年12月9日に始まり、12月14日にかけて発生した獣害事件です。

三毛別羆事件の最初の事件:太田家の襲撃

太田三郎は、内縁の妻・阿部マユと養子に迎える予定だった蓮見幹雄(6歳)の三人で暮らしていました。

事件は1915年12月9日に始まり、最初の犠牲者となったのは、小学校1年生の蓮見幹雄(6歳)と内縁の妻・阿部マユでした。

太田三郎が山での仕事を終わり、帰宅すると室内で幹雄が座っていました。
しかし、どうも様子がおかしい。

近づいてみると、幹雄はすでに息絶えていました。
喉元や側頭部には、鋭くえぐられたような致命的な傷が残されていました。

三毛別羆事件の第二の襲撃事件

太田幹雄とマユの通夜が営まれていた太田宅に、同日夜8時半ごろヒグマが乱入しました。

参列者は9人と少なかったものの、ヒグマの襲来に恐怖し大混乱となりましたが、この時点では犠牲者は出ませんでした。会葬者たちは明景家に退避しようとしました。

その約20分後、太田宅から約500m下流の明景家にもヒグマが窓を突き破って侵入し、
当時、明景家には明景一家7人、斉藤タケ母子3人(タケは妊婦)、長松要吉の計11人(胎児を含めると12人)がいました。

暗闇の中ヒグマは次々と人々を襲い、妊婦の斉藤タケとその胎児、明景家の三男・金蔵、斉藤タケの四男・春義、そして重傷を負った後に亡くなった斉藤タケの三男・巌の計5人が殺害されました。

また、明景ヤヨとその子・梅吉、長松要吉の3人が重傷を負いました。
明景家の長男・力蔵、長女・ヒサノ、次男・勇次郎は生存しました。

村人たちが駆けつけ家を取り囲み威嚇するとヒグマは逃走。

殺害されたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていましたが、胎児はその後死亡しました。
この夜の襲撃を受け、六線沢集落の全住民約40人は三毛別分教場へ避難し、重傷者は手当てを受けました。

三毛別羆事件の解決

12日、通報を受けた北海道庁警察部は討伐を派遣することにしました。

当初、犠牲者の遺体を「餌」にしてヒグマをおびき寄せる作戦が実行されましたが、ヒグマは警戒して近づかず失敗に終わりました。

13日には陸軍も出動した(異説あり)ものの、ヒグマは発見されませんでした。

同日、住民が避難し無人となった六線沢の家々がヒグマに侵入される被害が発生しており、猟師の山本兵吉がヒグマを目撃しますが、射殺には至りませんでした。

その夜、警備中の討伐隊員が不審な影(ヒグマ)を発見し発砲、負傷させますが逃げられました。

翌朝、討伐隊が血痕を追う一方、山本兵吉は単独で入山し、ヒグマを発見。

山本はヒグマの心臓と頭部を撃ち抜き、午前10時に射殺。
一連の事件は終息しました。

この3日間の討伐には官民合わせてのべ600人、アイヌ犬10頭以上、鉄砲60丁が投入されました。
ヒグマの死骸を運ぶ際には天候が急変し吹雪となり、村人たちはこれを「熊風」と呼んだとされています。

ヒグマは解剖され、胃の中から人肉や衣服が発見されました。
さらに、このヒグマが太田宅襲撃以前に別の地域で女性3人を殺害・食害した犯人であるとの証言があり、胃の内容物からもそれを裏付ける証拠が見つかりました。

ヒグマの毛皮や頭蓋骨はその後行方不明となっています。

三毛別羆事件の深刻性

三毛別羆事件は大きく取り上げる一方で、補足的な採録にとどまり、被災の詳細などにも間違いが見られています。
よく言われている太田家襲来の前に下校中の小学生が熊に襲われていたなど様々な諸説があります。

ここで紹介している内容は12月9日から解決までに8人の死者をだしている三大獣害事件と言われている。

三毛別羆事件の熊の特徴

事件を起こしたヒグマは、体長2.7メートル、体重340キログラムという巨大な個体で、当時としては異常な大きさであり、このサイズは現代でも最大級のヒグマとして記録されています。

また、この個体は人を恐れない異常な攻撃性を示し、積極的に人間を襲う行動をとっていたとされています。

事件の教訓と現代的意義

野生動物との共生

三毛別羆事件は、人間と野生動物の生活圏が重なった結果が引き起こした事件とも言及されています。

現代においても、野生動物との適切な距離感や対策の重要性を考える上で、貴重な教訓として語り継がれています。

熊対策の見直し

この事件などから、熊や野生動物の生態・対策の見直しが行われました。

  • 火を恐れない
    事件発生後、村民は火を焚いてヒグマを避けようとしており、人々が明景家に避難した際や分教場に退避する際に多くの焚き火が燃やされたことが記録されている。
    これらの行動は一般に言われる「野生動物は火を怖がる」という風説を信じたものだが、実際は太田・明景両家の襲撃にみられるように、ヒグマは焚火などの動かない火に拒否反応を示すことはない。
  • 執着心が強い
    トウモロコシを何度も狙っている点や、以前に複数の女を食い殺したヒグマが三毛別でも女の衣類などに異常な執着を示している点からも確認できる。
    また、阿部マユを食害した際に食べ残しを雪に隠したこと、太田家に何度も出没したことなども同じヒグマの特性による。
    その一方で、への被害は皆無だった。
  • 逃げるものを追う
    明景ヤヨらは、ヒグマが逃げる要吉に気を取られたため助かった。
    このように、たとえ捕食中であってもヒグマは逃避するものを反射的に追ってしまう傾向にある。
  • 死んだふりは無意味
    明景ヒサノと胎児はヒグマに攻撃されなかった。
    これは、ヒグマが動かないものを襲わないというわけではなく、そのときにただ単に他に食べ物があっただけと考えられる。

まとめ

三毛別羆事件は、北海道の開拓史における悲劇的な出来事として、現代にも大きな教訓を残している。8名の犠牲者の存在は、人間と野生動物との共生の難しさ、そして適切な対策の重要性を私たちに訴えかけている。

この事件を記憶し、教訓として活かし続けることは、現代を生きる私たちの責務でもある。

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